◎拝むことの大切さ。拝むことは頼むことというだけじゃない。拝んでおるうちに、わびることがお礼を申し上げてくることができる。自分の心というものがどこをお礼を申し上げ、どこを詫びよるかというようなことがはっきりしてくる。つまびらかになってくるんですよね。そこに心が整うてくる。
%1甘木初代の学院へ行っている孫への手紙。
%V


昭和四十三年九月二十七日夜の御理解


 信心に拝むということは大切なこと、拝むということがいよいよ生活の中に信心があるということ。どちらもおろそかにできません。これは、いかにも信心生活ができておるようでありましても、そこが生身ですからどうしても乱れがちです。

 %Vその証拠に御神前に座って、ずっと御祈念をさせて頂いておりますと、信心で言うたりしたしておると思うておりましても、大変まちごうておることがあった。いっぱいあります。そういう意味でやはり拝むということをしよるうちに、少なくとも一回は心ゆくまで拝ませて頂く。できれば朝晩。できるなら朝昼晩。といいたいところですね。

 %V例えば心の中にあいすまんというものが感じられたり、または有難いと感じたら、そのつど拝むことを怠ってはならない。

 %1今日一日若先生が甘木に行ってから、これはまだ非公開のものだそうですけれども、甘木の初代の先生が、今の文雄先生はお孫さんにあたられますが、学院に入っておられる自分に、手紙を書いておられる。その手紙を一冊の御本にしておられる。これは売ることもしない。もちろん公開もしない。それを何とか相談をしたんだそうです。そしたら公にはいかん、だから貸そうというて、そして貸し失したことにするからといわれたというんです。

 %1そういう風に甘木と合楽の上にも、そういうところから何とはなしに有難いものが生まれていきよるなと私は思うのですけれども、その本を、こんなに厚い本ですよ。けれども一気に読んだんですね。本当に情の細やかな、お孫さんに対するところの、本当に好々爺的な面と、厳として師匠として、また爺としての態度が手紙の中にはっきり出てくるんですね。出てまいります中に必ずいうておられることは、「お礼と願いをせよ」とか「お礼とお詫びをせよ」とかということなんですね。

 %Vですから、お礼を申し上げる。お詫びを申しあげる。いわゆる御神前にぬかずけということなんです。そのうちに自分の心の間違いではないように思っておっても間違えであったことが反省させられてくる。ということがそれから感じられるわけですけれども、どうでもひとつ、わたしどものように、いうなら信心生活に専念させて頂いておってよかろうはずの私たちがそうではないことがたくさんあるのです。だからあらためて御神前に座らせて頂くと、限りないほどにお礼やらお詫びやらが出てくる。

 %Vこれは最近の四時の御祈念をさせて頂くようになって、初めの間は三十分であったのがこの頃では一時間かかる。本当にお礼やらお詫びやら限りがない。朝も言うとる、昼も言うとる、晩も言うとるだけじゃないですね。そこに、何というか、心の調整というか、調和というか、バランスがとれてくるようにある。だから拝むことも大事にしなければならんと同時に、日常生活を大事にしなけれならんけれども、それをいよいよ日常生活を間違いのないものに近付くためにも、拝むという時間を一日のうちにどうでも頂かにゃいかん。

 それが甘木の先生がお孫さんに書いておられますように、必ず、「お礼を申し上げてお詫びをせよ」とか「お礼を申し上げて願え」とかいうことが繰り返し繰り返し書いてございます。

 %V本当にお礼申し上げて、お詫びさせて頂きよるうちに、御祈念させて頂きよるうちに私どもの心が、いうなら平常心というか、間違いない方向に進んでいくことができるのです。

 とても御祈念はおろそかにはできません。ですから教会にはおまいりしなくてもよいから自分ところの御神前にぬかづかせてもらうということ、それも心ゆくまでのこと、私は昼まいってくる人たちにいつもそれを感ずるのですけれども、ようも遠方から御参りしておいてから、ほんなちょっと拝んどいてから御理解を頂きよる。ただお届けだけをしてつっと帰る人がありますが、「おしいなあ」御祈念をしっかりと頂くとよかろうに、拝むこともしっかりと拝んでいったらよかろうにと思うことがあるんです。

 %V拝むことは頼むことというだけじゃないです。そういうように拝んでおるうちにです、わびることがお礼を申し上げてくることができる。自分の心というものがどこをお礼を申し上げ、どこを詫びよるかというようなことがはっきりしてくるんです。つまびらかになってくるんですよね。そこに心がととのうてくるんですよね。どうぞ。